たこ焼きキャンプの食事担当スタッフ・石井さえ子さんへのインタビュー。
前編はさまざまな方から好評をいただきました。
大変お待たせしました!
軽く年をまたいでしまいましたが(汗)、いよいよ後編をお届けします。
とても濃く深い、さえ子さんの語りをじっくりお楽しみください。
【インタビュー・編集 一海真紀】
◆《圧》がない理由◆
――さえ子さんは、子どものころは友だちの中ではどんな存在でしたか。
わりと何でも気づいて先回りしてやってあげることが多くて、みんなのお母さんみたい、と言われたり、お姉ちゃん的存在でした。でも少し大きくなってくると、「さえちゃんにばっかりやらせてる」ていうのがみんなの負担になるような気がしてきて、できることはやれるときに見えないようにサッとやる、みたいになりましたね。今何しといたらさっさと終われるかなとか、どうやったらうまく動かせるかを考える。せっかちがベースにあるんやと思います。
――でも、さえ子さんにはせっかちな人にありがちな、人への《圧》がないですよ。お料理のときを見てても。
それを感じさせたら終わりやと思ってて。もっとゆったりした気持ちで、みんな高速回転しろ、と思ってます(笑)。私、一番トップのせっかちですよ。効率化を生むことに燃えてます。
早いけどせかせかしてない、って言われることがあるんですけど、せかせかしてるのって、結局早くないんですよね。せかせかしてるだけで。
――なかなか深いですね、それ。
せかせかを感じさせてるようではまだまだ甘いなと(笑)。大人になる中で、あの人ってすごいなと思う人を見てきて、そういう人はバタバタしてない、スマートな動きをしてる。いかにスマートであるかって大事やなと思います。別にかっこよく、ということではなくて、ゆったりしたいときにもどこかをちゃんと動かしておかなかったら、ほんとにゆったりできないんですよね。
それはたこキャンの料理のときも思ってて、せかせかしたくないけど、みんながほんとの意味でのびやかな気持ちで動ける、工夫次第でそうできるんちゃうかなと。
――たとえばたこキャンの料理の現場で、時間のリミットが迫って、人の手がいるけれど、その人がさえ子さんの思うような動きをしてくれない。そういうときは、イライラはしないんですか?
「あー」とは思うけど(笑)、イライラはしないですね。その人がやるペースの合間に、私がうまく入っていけばいい。餅つきスタイルみたいな(笑)。「この人のこのスピードを一番効率よく使うには」と考えます。もし間に合わんかったらしょうがない。イライラするのって私には、もったいないと思えるんです。その人に合わせた次の手を考えます。
――組み立ての先が見えてる人って、ともすれば自分の描いたようにならないと不安になって、人を手足のように使おうとすることが多いと思うんです。その結果、うまく手足にならないとイライラして《圧》をかけてしまう。さえ子さんがそうならないのは、何が理由だと思いますか?
ムダだと思うからですね。ムダがきらいなんです。達成すべきことをやる仲間を、余計な《圧》をかけて余計にトロくさせるなんて、私はめっちゃムダじゃないかと思うんです。
絶対間に合わへんってなったらもう、どう楽しく過ごすか。一緒に言い訳考えるとか(笑)、手を動かしながらそれをやっていく。
――なるほど…。その人それぞれのペースやスピードがあって、それを誰かが自分の手足みたいに動かすことはできないというのは、あたりまえといえばあたりまえのことなんだけれど、実は認識されづらい。でもさえ子さんの中には、前提としてそれがあるということですよね。
そうですね。でもそれも、自分が変われば変わるかもしれないと思います。その人のペースが遅いとして、私ががんばって入っていって全体のペースが少しでも早くなったら、結果的にその人自身のスピードもちょっとだけ早くなるかもしれない。希望はあると思います。
――そこで相手に「早くしろ」というんじゃなくて、自分がスピードアップしてる姿を相手が見て、もしかしたら変わるかも、と考えるんですね。もしそこで相手が変わらなくても、それは《怒り》になったりしないんですか?
そうですね。でも態度にもよりますよね。努力してへんとか(笑)。「なんであんたに合わせなあかんねん」とか言われたら、「もう、一人でやるからどっか行ってこい!」(笑)てなります。
でも一生懸命やって、その人のベストを叩き出してるけどスピードが変わらないんやったら、それはしょうがない。
――その人の一生懸命かどうか、がポイントなんですね。
そうですね。…で私は、「私はベストを叩きに行ってるけど、あなたはどう?」って思ってる。
――それって、見えない最高の《圧》じゃないですか!(笑)
最高の《圧》やと思いますよ。それが人を動かすと思います。その人がポジティブな気持ちで、前向きに変わったとき、最高の《圧》がかけられたと思います。そこには自己成長があるかもしれない。
スピードが「遅い」と言われるとして、言われた人はその(要求される)スピードにならないといけないのか。損得勘定で見る人だったら、「自分ばっかりがんばってこんな早くやってるのに、あの人のせいで損をする」ってなる。…私、そういうのないんですよ。昔から、誰かと比べて「自分ばっかり〇〇して損」ていうのはなくて。同級生とかと話してても、なんで人と比べてそんなん言うんやろ、て思ってました。
私は「損する」ていうのじゃなくて、そういうことをしないと自分に厚みが出ん、て思ってるんですよ。人の分までやった上で、何を自分が感じるか。「やってやった」じゃなくて、人の分までやってそこから何を得るかで、人間ってやっと厚みが出てくるんちゃうかなと。18歳くらいの時にそんな話をして、周りはみんな、「?」て(笑)。
――老成してますねえ。「厚み」!
大人になってきてやっと、当時通じなかった理由がわかってきました(笑)。なんでわからへんのやろ、損したと思うから損になるだけで、やればいいやん、て思ってて。やったらその分達成感もある。
でも、同じような環境にいてもそれぞれ受け止め方もとらえ方も全然違う。人と比べて考えるのが当たり前の人もいるんやなと。
――なるほど、確かに。誰かと比べて評価することって、多くの人にとっては普通のことになってますよね…。
一昨年から、さえ子さんがたこ焼きキャンプの食事作りを担うことになりましたね。コロナ前に比べて参加人数が大幅に減ったこともありますが、厨房の雰囲気が全然せわしなくないのに、ちゃんと調理は進んでるのが印象的でした。
なんか、「どうなっても大丈夫」て思ってるんですね。自分自身、経験して昔より機転はきくようになってるし、手伝ってくれてる人に「おやおや」ってことがあっても(笑)修正できる、「どうやってもおいしくなれる」と思うんです。料理の世界はけっこう《圧》があたりまえというか、人の口に入るものを作る責任はもちろんありつつも、私自身が《圧》をかけられるのは好きじゃないので。
――一昨年は、ふだんあまり料理をしないボランティアの男性2人がさえ子さんのアシスタントをしていて、ご本人たちは慣れない中で一生懸命、でもすごく楽しんで作業してたと思うんですね。それは、自分たちが否定されてないと感じさせるものが、さえ子さんにあるからだと思うんです。
Sさん(調理のアシスタントをした男性ボランティアのひとり)が「自分がやった」っていう実感と、「楽しい」っていう気持ちが持てて、あとSさんが家に帰っても同じことしてみようって思うといいなと思うんです。一品を作るときに「あれやって、これやって」って指示だけ出して、最後は私がまとめて、ということもできるんですけど、それだと《ひとつの作品を自分で作った感》がないやろうな、と。全部の料理を「さえ子さんが考えて、さえ子さんが作った」ていうんじゃなくて、これはSさんが自分の想いを持って作った―そういう実感というか達成感を持ってもらいたいと、これは今回やっていく中で考えたことですね。
私が楽しい、というのも大事で、人に《圧》をかけてると自分も楽しくない。調理場って女の人がやっぱり多いので、その中で誰が仕切るか、誰がリーダーか、みたいな特有の緊張感があって。その中で私が自分のスタイルでいると、責任感がないみたいに見られてしまうんですけど、そういう見せ方を(あえて)しているところもあります。誰が指示を出すか、とかじゃなくて、ふだんおしゃべりしてるときと変わらないやりとりをしながら料理をしていく。
――横並びで、ともにやっていく感じですよね。上に立つものが材料の切り方とか細かく指示を出して「私の料理」にするために人を使う、ていう構図って多いと思うんです。でもたこキャンの調理はそれとはまったく違うということですよね。
そうですね。でも…私ってこう見えて、めっちゃ細かい人間なんですよ(笑)。見んでもいいとこまで(笑)よく見てるし。だから切り方にしても何にしても、適当にやってていいというんじゃなくて、「おいしくなる」っていう終着点がブレずにあって、最終的に私が回収できる範囲かどうか、ていうのはずっと見てます。回収できる自信も昔よりついてるし、これなら大丈夫、ていうのもわかるようになってきたと思います。
◆料理は深い世界◆
――ふだんは自分の仕事として食の仕事をしつつ、これからもたこキャンで食事担当をしていってもらうわけですけど、たこキャンの食事でこれは大事にしたいと思っていることは何ですか?
「おいしい」と思ってもらえることですね。
「おいしいと思わせたい」じゃなくて、「おいしいと思ってもらえるか」がポイントです。私はこれが作りたい、とか、どう見せたい、とかないんです。楽しく食べてもらえること。
あらかじめ決めてたメニューとかを、たとえば当日に必要があれば崩すのも全然できます。
――食べさせたい、おいしいと思わせたい、喜ばせたい…「~させたい」というのは、料理の世界にはすごくありますよね。
そうですね。私にもそういうのはあったと思います。(料理って)自分のよかれと思う気持ちで人を傷つけたりとか、そういうことがしてしまえる。
――そうですね。一見、「よかれと思う気持ちで人を傷つける」という行為と、料理というものは言葉としては遠いようだけど、実はすごく近い気がします。
近いですね。そういうパターンっていうのは自分の中にもあります。
――人の口に入るものを自分が作って、食べるところまで見届けるというのは、多くの人があたりまえに、たとえば母親とかがやっていることだけれど、それが人を傷つけることにもなり得るというのは、作り手の感情やエネルギーまでそこに込められた上で、相手の口に入れるからなのかもしれないですね。
そうですよね。昔の、生きるか死ぬかの時代の「料理する」「食べる」ていうことと、今の時代とはずいぶん違うと思います。お母さんは自分の料理が残されると、自分が否定されたような気持になってしまう。根深い世界やなと思います。まるで自分を(料理に)置き換えるみたいな…。なんかたぶん、ずれるんでしょうね、目的が。
意図がずれると、傷しか生まない。そこが整理できてると、料理が残っても「残された」っていう攻撃的なとらえ方じゃなくて、単に残ったら困るからどうするか、ていうことになる。
なんで自分がそう感じるかを考えて、あと残った料理をどうするかのすべが自分にあれば、変わってくるし、道があると思うんです。
――アレルギーのある子が参加した場合、その子だけ別のものを食べさせるのではなくて、その子も含めてみんなが食べられるものを用意する、という考え方が今年実践されて、とても新鮮に感じました。除外するのではなく、全員が安心して食べられる状況を作るというのが。
私がそもそも食の仕事を始めたのがヴィーガン料理で、いろんな理由で食べられないものを除去して、それでもおいしく食べられるようにする、ていうのがコンセプトやったんですよ。誰かが我慢するんじゃなくて、みんなが満ち足りて同じものを食べられるっていう。
ただ、それが私の中でちょっとずつ変わってきて、日本って《同じ釜の飯を食べる》っていうことに価値を見出して、みんな同じなのをよしとする。でも、同じテーブルについて、みんな別々のものを食べていても平和は平和。日本ではもうちょっと先のことになるかもしれないけど、海外では個人がそれぞれ食べるものを選んで、人と同じじゃなくても抵抗がなくて、認め合ってる。そういうスタイルで人を受けいれていくことの方が大事、ていうふうに(自分の考えが)変わってきたかなと。同じである必要はない。そう考えると、アレルギーのある子でもそうじゃない子も自分に合ったものを選んで食べるのがふつうになったらいい。
ただ、今のたこキャンでは(みんなが同じものを食べる設定が)安全で現場的に楽やからそうなった、ということやと思うんです。もちろん、一緒に食べられるっていううれしさはあったと思うし。だから、今年そういうふうにしたことについては、私の中では特別感はないんですよ。
「今日はアレルギーのお友だちがいるけど、さあみんなで同じものを食べましょう!」みたいなことになったら元も子もないなと。たぶんアレルギー除去食っておいしくないというイメージがあるから、実はおいしいんやと知ってもらうことも大事やと思うんですけど、「(除去食だけど)おいしい」って言わせたいわけじゃなくて、要は何を伝えたいかやと思うんです。だから、今年はこういう形になったし、実際喜んでもらえたけど、(今後は)また別の伝え方をしていってもいいかなと。
――今回はあくまでひとつの試みとして「自然な形ですべてアレルギー除去食にする」というのをやってみて、いい形で期間中の料理を実現できた、ということですね。
そうですね。何がどう来ても、どう返せるかのスタンスがこっちにあれば大丈夫やなっていうのは今回あらためて思いました。
(今後)今年はたこキャンの食事どうしたい?どうする?ていうのは私ひとりが決める話じゃなくて、(参加者の)お母さんとかも含めて話せたらと思うし、料理も一緒にしたりとか、そんなふうにしていけたら。
――去年(2022年)と今年(2023年)で特に印象に残っていることはありますか?
お米(ごはん)が、米どころの福島に比べると…という声があって、お米のチョイスもですけど、炊き方もあったのかなと。あの大きな炊飯器でどう炊けるのかなとかちょっと不安があって、今年は鍋で炊いてみたりとかいろいろ試して、ああこんな感じでいけるなってつかめました。
やっぱり少しでも不安があると料理に出るんですよね。失敗したらどうしようとか思ってると、その不安が料理に出る。自信をつけるのって大事やなって思いました。肩の力を抜くために、自信をつけていくしかない。…深いですよね、料理って。自分のあり方がすべてそこに出る、ていう感じで。
――たしかに…。去年もでしたけど、今年も参加した親子から「おいしい!」という声をたくさんもらいましたよね。それについてはどうですか?
私、自分の作ったものを母に「おいしい」って言われたこと、数えるほどしかないんですよ。
――えっ!?そうなんですか?
家族って正直やと思うから、私は自分でそんなおいしいものを作ってるっていう自覚が…ないわけではないんですけど、特別何かおいしい、すぐれたものを作ってるとか思ってなくて。そうやって(参加者から)言ってもらえると「ああ、よかったな」って。私も自分で食べておいしかったし、まあそんな感じかな、と。(食べる人と)好みが似てたらいいな、ぐらいの。
――はあー。そうだったんですか…。
だから「おいしい」ってたくさん言ってもらえたら、「ああ、ありがとうございます」って。そんな感じです。ラッキー、くらいに思って。
(母という)一番近くにいるお客さまを満足させてない、みたいな気持ちがあるんですよね。
でも母も病気をして、私がいろいろサポートをしたり食のことを紹介したりとか、ほかの人が私のことを「一番身近に(食を仕事にしてる娘が)おるやん」て母に言ってくれたりして、ちょっと変わってきたかなと思いますけど。
自分がおいしいと思うことはまず大切なことですけど、そこにいる人が素直においしいと思えるものなのかというのはイコールではないということ。思いやりを持って考え尽くすのはもちろん、相手の「おいしくない」も知って受けとめて変化させて、そこにまた「おいしい」が生まれることが大きな愛なんだと、母とのやりとりでわたしが気づかせてもらったことです。だから、私の料理を食べた人から「おいしかった!」て言われると、「よかったね」って思います。「ありがとう。あなたがおいしくて、よかったね」って。
――いやー、そうなんですね…。作って、出して、「どうだ、うまいだろう!」みたいなのはさえ子さんにはない、ってことですね。
自分で「これめっちゃおいしい!」て思うことはあります(笑)。「すごいおいしい、お店のやつみたいやん」て言ったら「お店やってたりするやん」て言われて(笑)。
――はははは。
もちろん自分の中に、仕事用に作る料理と家庭用に作る料理の線引きはあるんですよ。たこキャンで作る料理は、仕事用と家庭用の間くらいなイメージです。「よその人が作ってるごはんやけど、ほっこりする」って感じてもらえるのがいいのかなと。
――うーん。ほんとうにいろいろ緻密に考えて料理をしているんだなと、あらためて感じ入りました。
すごくダイナミックに生きたいんですけど、根が細かいので(笑)。
――いや、十分ダイナミックだと思います(笑)。ここまで緻密に考えて、準備して、その上でのフレキシブルさ、なんですね。
そうですね。みんなが思ってる準備とはちがう準備なのかもしれないです。焦らない準備というか。準備をしない準備、というと嫌な感じ(笑)ですけど、材料とかも揃えすぎて残ってしまうとか、手厚すぎると無駄になったりする。スケジュールを見て、足りなければここで近場に買いに行けばいいなとかリサーチはしておいて、事前に全部買っておくとかはしない。
――「準備をしない準備」って、もはや哲学か禅問答みたいですね(笑)。
ひとつ間違うと嫌味ですよね。あやしいし(笑)。
◆これからやりたいこと◆
――今後、たこキャンの食事担当としてやっていきたいことってありますか?
基本は今のままでいい感じがしてます。要望があるんだったら、料理教室っていうほどのものでなくて、何か一緒に生活をしてるっていう感覚で、自由に大人も子どもも料理するような…。親子でセットじゃなくて、行きたい人が行きたい人と誘い合わせて来てくれるようなのができたらいいですね。
――前にちょっと話してた、福島県内で《さえ子さんの一日料理教室》みたいなのができれば、参加する人たちも、キャンプ期間内とはまた違う動き方ができるかもしれないですね。
そうですね。今、私が仕事で、熊本で《リトリート》っていうのをやり始めてるんですけど…。
――《リトリート》?
ふだんの生活の場からちょっと離れて、自然の中で過ごす。たとえば大阪で毎日仕事に追われて生活してる人が、そこから離れてゆっくりしようという…。旅行とは違って、ヨガとかでもよくあるんですけど、デトックスして心身ともにリラックスする期間を持つんです。それを、いろいろな人とともにやる、という。
――まさに《保養》ですね。
そうですね。たこキャンみたいな(笑)。
これはずっとやりたかったことで、なんでやりたかったかというと、初めて熊本に行ったときに自然もほんとにきれいで食べものもおいしくて、すごくリラックスして…そういうときに《自分がほんとにどうしたいか》ということが出てきやすいんやな、て感じたんです。
リラックスした、元気な状態で、自分がこうしたい、という気持ちが出てくる。熊本で仕事のあと延長してしばらくいたんですけど、ずっとここにいたいな、という気持ちになってきて、日常はここにもあるんや、と。この時間がすごい大事で、原動力になるなって思ったんです。ふだんの生活からいったん距離を置いて、元気になる場所。自分を作るもの、食べものであったり、体を動かしながらメンテナンスすること、それをしながら何を考えるかやなと。
東北も、原発事故があったからこうやってつながったわけですけど、その土地を知るってすごく大事なことやし、お互いに行き来しやすい環境を作っていきたいなと思います。何かきっかけがなかったら、他県で生活することってなかなかないですよね。暮らす、暮らしを知る、ていうことにやっぱり私はすごく興味があって、それはアメリカに行ったときも思ったんです。旅行でホテルに泊まるんじゃなくて、人の家に滞在させてもらってたので、ローカルな情報とか、いつもとは違う日常がそこにあるというか。食べものっていうのもすごく大きくて、そこにしかない食べものを知っていく。そして料理をする上で(自分の中の)敷居を低くしていく、っていうこともやり続けていくと思います。
たこキャンに来てる人たちも、来て滞在することでその土地を知って、そのことで自分の日常が少し楽になるかもしれない。楽しく、と言ったら言葉が軽いみたいですけど、本当の意味で楽しんで生きる、ていうことができたらいいなと思います。どんな状況であっても、自分の中に楽しさがあって、それを拡げていくことは、私自身どこの土地に行ってもやりたいなと思います。
――いやー、実に深いお話をありがとうございました。すごくおもしろかったです!
こちらこそ、ありがとうございました。なかなか自分の考えてることをまとめて話す機会ってないので、自分でもすごくおもしろかったです。
(了)