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明石であそぼう! たこ焼きキャンプ takocamp.exblog.jp

 「福島の子どもを招きたい! 明石プロジェクト」が主催する「たこ焼きキャンプ」のブログ


by takocamp

大塚愛さん講演会 「私の出会った原発災害 ~今、福島の子どもたちは~」

遅くなりましたが、11月2日・3日、岡山の支援団体「子ども未来・愛ネットワーク」代表の大塚愛さんに来ていただき、お話をお聴きしたときのレポートをお届けします!


まず11月2日は、関西の保養・被災者支援団体のつながり「みみをすます関西」主催の交流会を、明石市立中崎公会堂にておこない、大塚愛さんにお話をうかがいました。

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大阪や京都、滋賀など遠方からもたくさんの団体のスタッフや支援者が集まり、大塚さんを囲みました。夜にはこんな懇親会も。

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福島で暮らしているときに練習していたという、ジョン・レノンの「イマジン」に合わせたフラを披露してくださいました。心にじーんとしみる時間でした。
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翌11月3日は、明石市生涯学習センターにて、たこ焼きキャンプ主催の講演会「私の出会った原発災害 ~今、福島の子どもたちは~」で大塚愛さんにお話ししていただきました。
新聞等で紹介されたこともあり、たくさんの参加で会場は満員となりました。
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大塚愛さんは岡山で育ち、大学生のときに阪神淡路大震災が発生。すぐに神戸市兵庫区へボランティアとして駆けつけ、自分の車で寝泊まりしながら活動を続けられました。
ちょうどそのとき救援基地になっていた現場で、たこキャンのマスターこと小野さんや現スタッフのとよみさんなどと知り合い、ともに被災者支援活動をしたという深い縁があります。
その後、福島県の川内村へと移り住まれた大塚さんは、修行ののち大工さんに。3.11のその日まで、川内村で農業や子育てをしながら豊かな暮らしを営んでおられました。

現在は岡山県で『子ども未来・愛ネットワーク』の代表として避難者支援や保養の活動をしておられる大塚さんに、かつて川内村で自然とともにあった生活の様子、そして3.11で激変した人生、その後実家のある岡山に避難・移住されてから取り組むようになった避難者支援や保養の活動などについて、写真や資料をまじえながらお話ししていただきました。お話の要旨を掲載します。
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◆3.11までの川内村での暮らし

私は14年前に福島県の川内村の山の中に移住しました。その後12年間、農業と大工の仕事をしながら3.11までそこで暮らしていました。
大学生のときに阪神淡路大震災が起き、岡山から神戸に行ってボランティアをしたのが転機となり、その後自分の生き方を模索する中で、自然の中で自給自足で暮らしたいという思いが強くなったのがきっかけです。
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川内村は、冬は厳しいけれどそのあとの春は本当に美しく、豊かな自然に囲まれています。私は大工修行をしながら村の雑木林の中に自分で小屋を建て、ひとり暮らしをしたあと結婚し、今度は家族で住む家を自分で建てました。
ガスも水道も電気も来ていないところで、のちに夫とソーラー発電を設置し、自力で井戸を掘り、田畑を耕して、生まれた子どもとともに自給自足の暮らしをしていました。
神戸の震災や東南アジアへのボランティア経験から、たとえ不便であっても現代の便利な暮らしにはないようなゆったりした暮らし、助け合う暮らしに魅かれるようになったのが大きいです。
川内村では、地域の人と家族のように助け合って生活し、農業をしてきましたが、2010年秋の稲刈りが、ここでの最後の稲刈りになりました。
自分の一部のように感じていたこの自然が放射能に汚染されたつらさ、さびしさ。家族のようだった多くの人たちとも、住むところは離れてばらばらになりました。



◆3.11 とにかく逃げなければ

川内村の自宅は、福島第一原発から23㎞のところにありました。
村に住むようになってから、チェルノブイリ事故で被災した子どもの保養にかかわる人から借りた本を読んだり、身近に原発で働く人が白血病などにかかって若くして亡くなった話などを耳にするようになり、原発に対してはずっと危機感を持っていました。
原発は福島では大きな産業で、地元も交付金を含め多くの恩恵を受けていました。東電は安全安全と宣伝していましたが、なぜ福島に東京の電力を作る原発を建てるのか…それは危険だからなのではと感じていました。自然を利用した代替エネルギーへの思いを強くしながら、いつもどこかで原発への不安を感じていました。

3.11のそのときは、家で子どもとおやつを食べていました。震度6の揺れが5分くらい続き、それでも自作の家は免震構造になっていたようでほとんど被害がなく、夫の帰宅する山道も崩れていましたが、なんとか通ることができました。
けれど、ニュースで福島第一原発の冷却水の停止を知ったときに夫が「メルトダウンするかもしれない。逃げるしかない」と言い出したのです。私はこの地震はなんとかやり過ごせた、と思っていたのでとても迷いました。
その後、原発3㎞以内は避難というニュースを聞いて、やっぱり逃げるしかないと決意。夜の10時ごろ車に布団や荷物を積み、「とりあえずなんだ」と自分に言い聞かせながら出発しました。同時に、これからどうなるんだろう、という張りつめた気持ちでした。

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その夜、車で40㎞離れた知人宅に着くと、知人一家はすでにもっと遠くに逃げたあとで、駐車場で夜を明かし、翌朝には会津若松へ。
昼食中に夫が「もう、わが家には戻れないだろう。子どもたちのためにもっと遠くに行くしかない」と言い、私は受けいれられず悩みました。
そして午後、1号機で水素爆発が発生。「ついに(決定的な事態が)起こってしまった」とわかった瞬間でした。「私の住んでいた地域に放射能が降ってくるということが、おそれていたことが起こってしまった」と感じて泣き続けました。
その後、新潟から北陸経由で実家のある岡山へ。悲しくて悲しくて、ずっと涙を流しながら運転しました。

3月13日の朝、三木のサービスエリアで朝日を見たとき、平和な光景に、別世界に来たようにほっとしました。
けれど、岡山に着いてからは、心のほとんどを福島に置いてきたようで、毎日メディアでその後の川内村や原発がどうなっているかを見続けていました。
3月16日、川内村は村長判断で全島避難を決定、村民は郡山市内の施設に集団移動しました。国や自治体からは屋内避難の指示しか出ていませんでした。
3.11までおだやかに平和に、自然に寄り添いながら暮らしていた村が無人になり、みんながバスに乗って去っていくという嘘のような悲しいことが起きたのです。
私にとって世界がガラガラと崩れたような気がして、毎日泣いていました。
でもやがて、自分はまだ生きている。自分にできることがあるはずと考えるようになりました。



◆岡山で活動をはじめる

福島で元々かかわっていた「ハイロアクション」で(原発事故に対する)声明を出そうということになり、そこから岡山に避難してきた人たちとのつながりがはじまりました。
そして、放射能の汚染地図が作成されたのを見て、高汚染地域に子どもたちを含め多くの人たちがいることがわかり、少しでも避難の助けになるようにと(『子ども未来・愛ネットワーク』の)活動をはじめました。

関東でも、原発事故後に子どもの鼻血、のどの痛みなどの不調が出るという報告がとても多くなりました。放射性物質に色がついていれば、みんな気がついて当然避難するはずですが、みんなが知らないうちにもうすでに降ってきてしまっていたのです。
公の情報は「ただちに健康に影響はない」というだけでしたが、インターネットで多くの情報を得ることができました。ただし、非常にたくさんの情報が入り混じっているので、何を選ぶかというバランス感覚も必要でした。
チェルノブイリ事故後の調査結果を見ても、同じだけ被ばくしても年齢が小さいほど放射線の影響が大きいことがわかっています。私も、せめて子どもたちだけでも逃がしてあげたいという思いで、岡山での活動をはじめていきました。

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(『福島の子どもたちからの手紙 ほうしゃのうっていつなくなるの?』《朝日新聞出版》)から、子どもたちの文章を抜粋して朗読)
こんな思いをして避難生活をしている子どもたちや、避難はできず福島にとどまって暮らしている子どもたちがたくさんいます。
岡山での私たちの活動は、まず自主避難してくる人の支援からはじまりました。震災から2年3か月で岡山への自主避難者は1,100人を数え、今も増え続けています。国からは何の支援もないため、物資の援助、そして避難者同士が出会える交流の場を作ることをはじめました。



◆保養の意味と大切さ

そして2011年の冬からは保養も開始しました。すぐに避難できない状況の中で、子どもたちに少しでも安全なところで一定期間すごしてほしい。できれば、それをきっかけに避難につながればという思いでした。

親子参加で岡山へ保養に来た子どもたちは、海岸に行くと「お母さん、ここの砂はさわっていいの?」と聞きます。福島では、さわってはいけないものがとても多いからです。震災後に生まれた一歳の子が、岡山に保養に来て生まれて初めて外遊びをしたケースもありました。
「ここだったら(さわっても)いいよ」とお母さんに言われると、子どもたちはすごく喜んで遊びはじめます。そして、そんな子どもたちを見ながら、お母さんたちも少しずつ解放されていき、思いを話せるようになっていきます。地元の食材を安心して食べさせられることも大きく、みなさんこわばった心の状態からくつろいでこられます。
保養に来られたお母さんたちと、岡山に避難・移住したお母さんたちとの交流会でも、思いを吐き出すことで少し心が楽になれる、前向きになれるということがあるようです。

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岡山県内では今、6つの市民グループが被災者支援の活動をしています。全国では、おそらく200を超える保養の活動をするグループがあると思います。
チェルノブイリ事故後27年たった今でも、ベラルーシでは子どもたちの保養が続いています。日本でも事故が起こってしまった今、この活動は息長く続けていきたいと思います。
保養キャンプで西日本に来てみて、そこが気に入り移住を決断した家族もあります。けれど、大半はなかなか事情があり実現はできません。保養活動とつながることで、自分たちは忘れられていないと感じ、福島でまたがんばっていこうと思えると、(岡山に)保養に来たあるお母さんから言われました。



◆川内村を見つめて

岡山に来て半年は私の実家で暮らしていましたが、もう川内村には戻れないと考え、岡山の郊外に田畑を借り、家族で住む家を自分でリフォームして移り住みました。
一年に一度は川内村に戻っています。当初は子どもは連れて行かなかったのですが、今年のお正月に初めて子どもを連れてわが家に帰りました。
川内村は帰村宣言のあと、3、4割の住民が戻っています。地元の人たちとひさしぶりの再会をしたり、なつかしい自然を見ると、帰りたいという思いに心が揺れます。
何が正解なのかはわかりません。それぞれが自分で選ぶしかなく、その選択を周囲はサポートしていくしかないと思います。

震災前は、大工の親方が毎年山で採ってきてくれるタラの芽が楽しみでした。(岡山に避難した)2011年、親方はタラの芽を送ってきてくれました。原発事故のせいで大好きなタラの芽が食べられないのはくやしくて、家族には食べさせず自分だけ食べました。
そして2012年、またタラの芽が届き、ちょうど測定器があったので放射線量を測ってみました。200ベクレルでした。
川内村の山々も、それだけ汚染されているということです。このことを、山歩きの大好きな親方に伝えるべきかどうか、すごく悩みました。悩んだ末に伝えたら、「線量計を持って歩いて、なるべく線量の低いところで採ったのに」とがっかりしていました。親方は、毎年楽しみにしていた山菜採りをそれ以来しなくなりました。
今は、柿も食べられない、栗も拾えない。命にとって一番大事な部分が失われてしまったと感じています。

福島のためのつぐないとして、もう二度とこのようなことが起こらないような社会に変えていくことが必要だと思っています。もう二度と、こんなつらい原発事故が起きないように。そのためにも、原発の再稼働という選択はありえないと思っています。
関西でも、いろいろな活動をされています。どうか機会があればつながって、福島の人の声を聴いてもらいたいと思っています。

(最後に、自作詞の歌『あの日をのりこえて』の弾き語り)

あの日をのりこえて

土がめざめ 春かおる ワラビが顔をだし
谷川にはウグイス 山には花が咲く
うつくしいあのふるさと 二度ともどらぬ日々
いのちはつづく 今日も あの日をのりこえて

夏をつげよ ホトトギス 山のみどり碧く
田にはいり 草をとる 見上げれば白い雲
なつかしきあの住処よ 二度ともどらぬ日々
いのちはつづく 今日も あの日をのりこえて

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ヤマザクラ 葉を染めて 山に入りキノコ採り
黄金にみのる田んぼに つどう友たちの声
いとおしきあの人達 今は何処に在る
時はめぐる これからも 絆を確かめつつ

雪の原に 冴え渡る 満月の夕べは
ストーブに薪をくべ 子どもらと温まる
なつかしきあの我が家よ 二度ともどらぬ日々
いのちはつづく 今日も あの日をのりこえて

作詞 大塚愛
曲 アイルランド民謡「サリーガーデン」



参加された方からは、被災者の思い、避難者の思い、そして避難できない人たちの思いが真摯に伝わってきたという感想がさまざまに寄せられました。
たくさんの思いを届けてくださった愛さん、本当にありがとうございました!


また、前回記事でご紹介した当日の動画ですが、記事中のURLで見づらい場合は、こちらでもご覧いただけます。

http://www.ustream.tv/recorded/40423759

期間限定ということですので、ぜひ愛さんの生の声をお聴きください!
by takocamp | 2013-11-10 23:26 | たこ焼きキャンプ2013 | Comments(0)